梁祝ツアーガイド(見所紹介)

浙江省寧波?イン県高橋(リャンチュウ文化公園)

・リャンチュウ梁祝墳墓

行き方、日本から北京往復航空券を購入し、午前中の便で昼前後北京着、午後便で北京より乗り継ぎ寧波へ(当日は寧波泊)国内線で寧波を往復する。寧波市内の観光地点「梁祝文化公園」所要時間2時間。 上海からは高速長距離バス片道寧波まで3時間。寧波市の他の観光拠点、市内「天一閣」中国有数の古文書収蔵。 
市外1,「天童寺」
中国浙江省寧波の東にある太白山の一峰、天童山にある禅寺。西晋の頃、義興が建立。歴代皇帝の保護を受け、また宋代に寺号を景徳禅寺と改める。中国五山の一。日本からの栄西・道元・雪舟らも参禅した。
市外2,かぼと‐いせき「河姆渡遺跡」
中国浙江省、杭州湾南岸にある新石器時代初期、前5000〜3300年の遺跡。豚や水牛を飼い、水稲耕作が華南で古くから行われていたこと、その年代が華北の畑作農耕に匹敵するものであることを示す。
市外3,じょふく「徐福」
秦の始皇帝の命で、東海の三神山に不死の仙薬を求めたという伝説上の人 物。日本に渡来、熊野また富士山に定住したと伝える。徐市じよふつ。

                              
寧波説明 
この地には確かに伝説のリャンチュウ墳墓とその痕跡が存在する。80%の学者がこの地が本当にリャンチュウ故事、伝説が発生した場所であると見なしている。この地の伝説の由来と根拠は寧波当地の民間伝承の中で“リャンシャンボとチュウインタイの二人が一緒に学習した”と伝えていること。また「寧波府志」と「?県志」に『リャンシャンボは東晋の会稽の人で、かって県の知事として、その功績がきわめて顕著であり,皇帝により‘義忠王’に封じられた。』と記載されていること。またさらに周静書責任編集の≪リャンチュウ文化大観≫の故事歌謡の巻き、全国リャンチュウ遺跡一覧表の中に記載があることによる。



筆者は半信半疑、浙江省寧波への実地踏査に出かけた。寧波に至り、第一の目標地点は「リャンチュウ文化公園」であった。筆者がほかの遺跡と比べ意外に感じたことは,なんとちゃんと公園の中にはきちんとリャンシャンボのかっての墓の遺跡、(現在復元された墓の隣に発掘された晋代の墓がガラスドームで覆われ存在する、清朝の墓の写真もあり)また更には当時の面影をとどめる九竜墟も存在するのである。園内のかなりのものは現代に作られたものではあるが、しかし墳墓や九竜墟の存在と伝説のリャンチュウ故事はとてもぴったりと符合するのである。園内にはかっての伝説の痕跡上になぞられた「リャンチュウ故事の遺跡」のそれぞれ、墳墓の保存はかなり完全で、これはまた歴史上この二人の人物が実在したことの証でもある。また展示館の中に、筆者は初めてリャンチュウ墳墓が全国に全部で十ヶ所有るということを知るのである。これらの都市は、浙江省寧波、甘粛省清水県、安徽省舒城梅心駅、江蘇省宣興市、河北省河間県林町、山東省嘉祥県(現在廃墟)、山東省微山馬坡、江蘇省江都県、四川省(現重慶)合川市、河南省汝南馬村というようになっている。地理的な分布位置から見ると、これらの都市は中国各地に分布しており、このことは筆者をして中国伝統文化の旺盛な生命力に驚かさられるのである。

筆者はきちんとリャンチュウ文化を理解するため、その他の九ヶ所の墳墓があるという場所を実地踏査する決意したのである。実際の発生点に,古い墓をなぞり再建された墳墓の前にたたずみ、筆者は愛情のために命を絶ったこの二人の青年に真摯な敬服の念を抱き、かつまたリャンチュウ文化の研究を深めることにより、さらにリャンチュウ文化、中国の人達に対するこの愛情故事の影響を一歩進めて理解しようとするのである。
 伝説に基づけば,かってリャンチュウ二人が蝶に化身した時に墳墓が裂け開いたのだ。なんとここのリャンチュウ墳墓上には、はっきりとその裂けひらいた時の痕跡が見て取れ、更には展示室の清朝時代の写真上にもはっきりと裂け開いたときの一筋の痕跡が見てとれる。

これこそ墓に赴き、蝶に化身した証拠ではないだろうか。その後筆者は三度にわたり寧波の実地踏査を行い、全部で合計五回リャンチュウ文化公園を歩き回った。その中で筆者は公園の中のリャンシャンボの銅像とリャンシャンボ゙廟の後ろの壁画に注意を引きつけられた。これらは筆者に新しい示唆をもたらした。これらは筆者が読んだ≪義忠王廟記≫と結びつけて考えると、これは単に愛情故事であるだけでなく、真面目に仕事に励み、民衆を愛した清廉潔白な役人の物語ではないのかとひそかに語っているようであった。 

リャンチュウ墳墓のすぐ近くの川の入り江に,“九竜墟”と呼ばれる場所がある。傍らの碑文によれば、此処は水流がとても急であたかも九頭の竜が泣き叫ぶようなので、かって“九竜墟”と呼んだとある。リャンシャンボが県の知事をしていた時、 治水工事の最中に過労のため病を得て、亡くなる前に九竜墟を埋葬地にしてくれるようにと遺言した場所である。もし仮にリャンチュウ故事が単なる愛情故事だとするなら、どうしてこんな所にこんな九竜墟という石碑、遺跡があるのだろう? 

実際に墓や石碑があるところ 
江蘇省宣興県善巻洞, 善巻寺(チュウインタイ学問所:碧鮮庵、墳墓:琴剣塚)

この地には伝説中のリャンチュウ学問所とチュウインタイの墓は存在する、けれども、リャンシャンボの痕跡は見つけ出せない。≪善巻寺記≫に斉武帝がチュウインタイの旧財産を買い寺を建てたという記載が有ること;唐代の梁言という人の≪十道四藩志≫の中に“善権山の南の上にチュウインタイイ学問所と石に刻んである。義婦チュウインタイとリャンシャンボを一緒の塚に埋葬する。”とある。
宋の≪咸淳毘陵志≫に“チュウ祝陵が善権山にあり、岩の前に巨石が有り、チュウインタイ学問所と刻まれ‘碧鮮庵’と言っている。”またさらに周静書責任編集の≪リャンチュウ文化大観≫の故事歌謡の巻、全国リャンチュウ遺跡一覧表の中に記載がある。

筆者は前後二度にわたり、江蘇省宜興県を訪ねた。この地には沢山のリャンチュウ関連の記載と痕跡がある。けれども年代がかなり古くて、一体どこがより真実の場所なのか,既に考証する方法がない。ところで、この場所で筆者は巨大な鍾乳洞を目にした、聞くところによれば此処はこの故事とは関係なく、この近辺で有名な観光名所であるという。また毎年春や夏には沢山の蝶々が飛び舞い、まるでこの伝説の故事が本当にここで起こったことを暗示しているような光景であるという。洞窟内にはいると、とても大きく広々としており、容易にチュウインタイが墓に赴き蝶に化身したというロマンな情景と関連づけることができる感覚になれる。宜興県には、リャンチュウ伝説に関わる痕跡がとても多い。かつまたリャンチュウ故事関連資料の掲示陳列はとても多彩で豊富である。筆者は、各資料に記載のある関係場所“琴剣塚”、“インタイ英台閣”、“碧鮮庵”を含めていろいろと歩き回った。その中で“琴剣塚”と“碧鮮庵”はとても人を感動させる古さと、謂われを備えており、恰も人々にリャンチュウ故事が含み蔵している文化と精神を黙々と語りかけているかのごとくであった。 
 これらの古い石碑の名前の由来は、リャンチュウの二人がかってお互いに交換した愛情の契りの印の品々と関連がある。リャンシャンボとチュウインタイとが、まさにお互いに分かれ杭州に学問に赴こうとしたとき、リャンシャンボ゙はそのとき自ら弾いていた‘琴’と伝来の家宝の‘剣’をチュウインタイに贈った。するとまたチュウインタイはかれに扇子に‘碧鮮’と二文字大きく書き、贈り返した。これは彼女の彼に対する碧玉のごとく曇りのない、少しの偽りもない心を表すものであった。その後リャンシャンボは悩みを抱き亡くなり、チュウインタイもまた悲しみ絶ちがたく、琴と剣を抱き、また死ぬのである。後の人が琴と剣と共に埋葬した場所に墓碑を建てた。これがまさに‘琴剣塚’である。またリャンチュウの二人が学問した書院を‘碧鮮庵’と呼び改めたのである。斉代に至り善巻寺と呼ぶようになったのである。
 ところで筆者は実地踏査の際、当地の人たちにリャンシャンボの墓は何処にあるかと尋ね回った時、誰もが知らないという。この事は筆者にはとてもおかしいことに感じられた。リャンシャンボの痕跡は見つけ出せないのであるが、チュウインタイの墓は二つあるのである。それは‘琴剣塚’と筆者が地元の人の案内で探し当てた。善巻洞の裏口を外部に出た小高い畑を上りつめたところにある一つである。宜興は歴史の重みを感じさせるとても美しい所であるが、かのはっきりと記載のある石碑の他に、このあまり人に知られていない墳墓、その他のものは全て後で作ったものであり、その歴史的真実性を弱めるものである。これに比べ寧波遺跡(痕跡)は地理的分布とその古い歴史性とあの豊富で生き生きとした民間伝説は十分符合する。
それで、

実際に墓があるところ                  
河南省汝南県馬村のリャンチュウ梁祝墳墓

7月7日実地踏査。この地には確かに伝説のリャンチュウ墳墓は存在する。この地の伝説の由来と根拠は周静書責任編集の≪リャンチュウ文化大観≫の‘故事歌謡の巻’の全国リャンチュウ遺跡一覧表の中に記載があること。また“河南省汝南一帯に≪リャンシャンボとチュウインタイの伝説≫が広く流布している”という記載が有ること。ここはリャンシャンボ、チュウインタイそれぞれ別の二つの墓が存在する。
筆者が実地踏査を開始する前、北京外国語大学の英語科の学生が汝南のリャンチュウ墳墓に関する内容で≪リャンチュウ墓の周囲に大量の蝶々出現≫なる記事が載っている新聞を持ってきてくれた、記事は伝える、“連日のように、汝南県馬郷鎮のリャンチュウの墓前に、無数の蝶々が飛び舞い、多くの人が引きつけられ見に訪れ、人々はリャンチュウの蝶への化身の物語を連想している”と言う内容である。

筆者もリャンチュウ故事との関係を連想し、大いに好奇心を喚起させられた。筆者は前日鄭州より長距離バスで駐馬店市に至り宿泊した駐馬店市を出発した。運転手さんは汝南馬村のリャンチュウの墓を十分熟知していた。ゆく途中遙か遠くに大きな四文字“リャンチュウのふる里”と記した古びた横断幕を目にした。車は走り続けて細いぬかるむ村の細い道にさしかかった。リャンシャンボとチュウインタイの墓はこの道筋の両側に位置しているのである。この道路を隔てて向かい合って二つある墓に奇妙な感覚を持った。それにしても、どうしてリャンシャンボとチュウインタイは別々にそれぞれの墓があるのか?
この事と墓に赴き蝶に化身したという伝説とは符合しない。それにしてもこの二つの墓はとても大きく素朴である。

聞くところによれば、かって文化大革命の時、この墓は掘り起こされた。しかし何時しか修復され、今や筆者は既に掘り起こされた当時の痕跡を見ることは出来なかった。又更には、新聞報道でみた蝶の飛び舞う場面は季節も少しずれ、目にすることは出来なかったが、周囲に目をやると参観者は筆者だけである。筆者は二つの墓の上に登り周囲を見渡した,ひたすら何処までも続く水田また水田が静かにこの二つの寂しげな墓に付き従っていた。 聞くところによれば、の汝南はとても有名な交通の要所であり、人の行き来がとても賑やかでもあり、これらもまたリャンチュウ故事の発生に条件を与え,この故事の真実性にもより所を与えているかのようである。けれども時の流れにつれて、何故かしら此処は少しずつ雑草生い茂り,荒れ果てはじめ、ついに現在のこの小さな村に成ってしまったのだと感じる。

実地踏査の過程の中で筆者は、この地、汝南の人達はリャンチュウ伝説にあまり興味を持っていないと感じた。見たところこの二つの墓の維持保護状況は余り良くなく、雑草が生い茂り、まるでいつか全てを掩いつくしてしまいそうである。筆者はこの貴重な文化遺産がいつしか人々の脳裏から消え去るとするなら、中国伝統文化の一大損失と感じる。

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