戯曲梁祝 戊子盛夏梦羲題記




日本で初の、戯曲「梁祝」舞台公演に向けて


戯曲「梁祝」作者/古野浩昭の日誌

梁祝文化研究所
戯曲「梁祝」舞台公演実行委員会(鎌倉市日中友好協会、神奈川県日中友好協会会員)
「梁祝」日誌4

4月6日夜遅く、上海浦東国際空港着。空港リムジンの最終バスで鉄道と地下鉄、長距離バスが乗り入れる上海南駅まで行き、徒歩3分、駅の東南に位置する馴染みの「OK賓館」へ。ツインの部屋で1泊188元。翌朝から、今回の旅の目的である「梁祝」関連の資料集め、写真撮影、江南の各地に散らばる友人たちと旧交を温める旅が始まる。最初の目的地は、古代、日中交流の表玄関、浙江省の主要都市、寧波。 ここに「梁祝文化公園」があり、広い敷地の中に梁祝関連の資料を集めた資料館や、梁山伯の墳墓があるというので、実際に自分の目でどの程度のものか確かめる必要がある。昨年5月、開通したばかりの世界で二番目に長い杭州湾跨海大橋(嘉興―慈渓間、全長36キロ)を渡り、約3時間で鉄道の寧波駅そばの長距離バス終点に到着。日本を出る前に予約していた「莫泰飯店」へ。ここも1泊なぜか188元だ。

昼過ぎ、ホテルからタクシーで約20分、「梁祝文化公園」着。表玄関は鄙びたお寺のような佇まい。客もまばら。30元の拝観料を払い、手入れのそれほど行き届いていない参観道をゆっくり歩きながら小川を渡って「資料館」へ。見物客は私ひとりだけ。建物内には、中年のおばさんが一人。小さな売店の売り子兼見張り役らしいが、暇そうで、時々、館の外へ何食わぬ顔で出ていく。お陰でじっくり見物でき、写真もバチバチ撮る。それにしても陳列物が少ない。毛沢東が北京で公演された越劇「梁祝」を観たとき、当時の役者たちと撮った記念写真や、場面ごとの舞台写真、さらに周恩来が観劇後に語ったという感想文などがガラスケースの中に収められているが、梁山伯の墳墓から出土されたようなものもなく、これといった展示物がない。墓の副葬品や古代の一般衣装や楽器類、全国の梁祝伝説にまつわる様々な展示物や資料を期待していただけに、これはいささか的外れだ。そう思って足早に建物を出ようとしたら隣りに連らなる倉庫のような薄暗い展示室がもうひとつある。中に入ると、なんと日本における梁祝研究の第一人者、梁祝文化研究所の渡辺明次所長(民話劇「梁祝」公演実行委員会顧問)の梁祝関連の著書三部作(日本語)がガラスケースに収められているのを発見。真新しい本なので他の展示物に比べると、キラキラ輝いて、まるで宝物のよう。これは嬉しい。

急に足が軽くなり、外へ出た。途中、二、三組の若いカップルとすれ違いながら植樹されたばかりの舗道をさらに進み、梁山伯の墳墓にたどりついた。幅6〜7メートル四方の土盛りした方円の墓。正面には中国式の長い線香や、お供えもの。墓の後ろには「晋封・英台義婦塚」と彫られた石塚もある。墓の正面右隣りには、1997年に発掘された元々の梁山伯の墓といわれる‘遺跡'がガラスに囲まれて保存されてあるが、今から1600年ほど前の4世紀晋代に建造されたと判定するには石が新しすぎ、やや疑問が残る。すでに何度も盗掘された後、古いものを破壊尽くした文化大革命後に展示用に再構築された遺跡のようでもある。いずれにしても諸々の研究から渡辺氏が主張するように会稽(紹興近郊)生まれの梁山伯が寧波の地で役人として功績を挙げ、この地で死亡したとする‘清官伝説'の信ぴょう性は高そうだ。

が、この‘清官伝説'がどのように祝英台との愛情故事として結びついたか、「梁祝」故事全体の信ぴょう性については、わずかに宋代に寧波で顕彰されたという「義忠王碑」の碑文など限られた資料から推測するしかない。筆者にとっては、この物語が、シェークスピアの作品と同様、話の内容が実話かどうかと問いかける熱意はあまりない。物語の真偽とは別に、気の遠くなるような長い年月の間に民間伝承として、いかに語り継がれ、愛されてきたかを知ることの方が大事なのだ、そう思いながら梁祝公園を後にした。
(続く)
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