発刊本紹介
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相田翔子さんの
帯のコメントより
中国新聞社による、渡辺明次氏へのインタビュー
 
第一弾「真実性を追う」 第四章:梁山泊と祝英台の人物分析
 

とどのつまり一体リャンシャンボとチュウインタイはどのような人物なのか?

彼ら二人の美しく壮絶な愛情物語は連綿と中国人民にあまねく感動を与え続けてきた。けれども筆者は単に愛情物語とするならば,これほどまでに生命力と魅力を持ち、現代まで伝わり続けるだろうか。どうして中国各地に十ヶ所の墓があるのか? 筆者はこれは絶対愛情物語の他に、さらに一つリャンシャンボの生涯における他の一面が有ると思うのである。リャンシャンボは弱冠 20 歳で県知事に推挙されたのである。県知事として彼は一体何をしたのか? 筆者は、彼はきっと人々をして彼を敬服せしめる事績(儒教思想の影響下に)を打ち立てたに違いない。それでこそ周囲の農民大衆の尊敬を得ることが可能である、とみなすのである。

微宗の大観年間の明州( ?県 )の府知事李茂誠が書いた≪義忠王廟記≫の記載に基づけば、リャンシャンボとチュウインタイの生活年代は同じである。リャンシャンボは紀元後 352 年に生まれ, 373 年に亡くなった、またチュウインタイの嫁入りは 374 年であると言うことは時間的に看て必然的に、論理的にも話が合う、故に彼らは歴史上実在の人物であると確定してよいのである。≪義忠王廟記≫の中には詳しくリャンシャンボの一生の事績が記載されており、チュウインタイが既に婚約が成立していることを知ったとき、リャンシャンボは

男たるものはこの世にあっては立派な(清廉潔白)な役人となり、さらに死後も人々の尊敬を受ける人になるべきであり、(思う女性と結婚できないという)こんな小さな事は取るに足りない事である』と感嘆した、という言葉はリャンシャンボの遠大な理想を表現していると言っても過言ではない。

やがてリャンシャンボは 20 歳の時、すぐに県知事となりその後、彼は一心にその地の民衆の幸福と安定した生活のために、河川整備などの任にあり、その際に一般の役人とは異なり、民衆と共に自らそれに従事し、また身命を投げ打ち、任にあたった。けれども、若くそれほど体も丈夫でなかったこともあり、疲労が重なり病気になり、 21 歳の時に任務の途中で亡くなったのである。
この様な清廉潔白な役人は、当時それほど多くなかったと考えられる。だから、その地の一般民衆の彼に対する敬愛と崇敬は理にかなっていると言うべきである。そうだとすればこの彼の命をなげうつ仕事ぶりからいって、「義忠王リャンシャンボ廟」は当地の一般民衆が自発的に建設し始めたと言うことは確かにあり得るのである。

当時の社会状況について考えてみると、朝廷は一般民衆の苦しみや要求を顧みなかったであろう。そういう状況で有る一人(リャンシャンボ)が彼らのために献身的に仕事をする。と言うことであればこの様な人民のために尽くす役人のイメージは、かなり容易に大多数の人に受け入れられ敬い慕われ、一般民衆が切に求める住民の為に公正に尽くす清廉潔白な役人の姿として、全国各地にリャンシャンボの廟や伝説がある原因であると考えられる。もしかすると支配者側はこの自らをも犠牲にする清廉潔白のイメージがあまり喧伝されることを好まず、後にはかなり力を入れて愛を貫いたチュウインタイの「忠」と「義」の側面を言い広めたのかもしれない。

このためにリャンチュウ物語(故事)が愛情伝説とされ全国各地に広く伝播し、その影響でリャンシャンボのイメージが、一般民衆の苦しみに共感を寄せる、清廉潔白な役人としての一面を凌いでしまったのである。

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