発刊本紹介
| 第1弾 | 第2弾 | 第3弾 |
相田翔子さんの
帯のコメントより
中国新聞社による、渡辺明次氏へのインタビュー
 
 (口承伝説集の翻訳原本の前書きから)
 

「梁山伯 Liangshanbo と祝英台 Zhuyingtai 」は美しくも人を感動させる、永遠に変わらない愛情故事である。

文字記載で最も早く見られるのは梁元帝の蕭繹(シャオイ)の《金楼子》である。蕭繹が帝位に登って 4 年(西暦紀元 552 ― 555 年)、と言うことは梁祝の故事伝説は必然的に 555 年以前に存在したと言うことになる、そうでなければ「金楼子」に収録することはあり得ないのである。

梁祝故事は晋代( 265 〜 420 年)の末に発生したとのことであるのだから、民間に広く伝わり 150 年後、やっと「金楼子」に記載された、このように計算すると梁祝故事は今に至るまで伝えられて来ているのだから既に 1600 年余を経過しているのである。一つの故事伝説が 1600 余年伝わり続けると言うことは、その生命力の強さ、影響力の大きさ、感染力の深さを見て取ることが出来ます。
1600 年余に渡り広く伝わり続けるということからその間どれだけ多くの人の思想感情に関わったか想像するにあまりあることであり、多くの関与した者が梁祝のイメージを変えますます豊かなものに成っていったのです。

魏晋の時代に、六回の戦乱を経た後に、人々の精神は漢の儒学の思想の束縛を突き破って、春秋戦国以後のさらなるもう一回の思想精神の解放をへて、祝英台が女性の身で男装して家を出て学に志したと言うことは決して奇怪なこととは言えないのである。魏晋時代はまた門閥の観念がきわめて深く、等級制度は極めて厳格な時代で「九品中正法の品位で人を論じる」という考え方の影響がとても大きく、上品に身分の低いものなく(貧乏人)、下品はすべて庶民であり、婚姻においては家柄の高低は超えてはならない境界線であり、祝員外官(地方豪族)は娘を貧乏な学者に嫁にやろうとはしなかったことは当然の事である。

精神の解放と封建的家柄の限界の矛盾が祝英台と梁山伯の愛情悲劇を生み出したと言えるのです。
この悲劇は歴史性を帯びており、梁祝故事の感動させるところは封建門閥制度の垣根を突き破った強力な精神力にあり、祝英台の「この世で一緒になれないのなら、死後あの世で同じ墓に葬られよう」という決心は、梁祝の愛情を昇華せしめ、この愛の悲劇を永久不変の愛に転化せしめたのです。
人々の美しいイメージ、「梁山伯の霊が凝縮し蝶が舞い、花開き祝英台を想う」(宋代薛季宣詩)です。二つの翼で舞う蝶々に比べることにより、愛の純化と、情熱の恒久性を象徴しているのです。梁祝故事は不思議なまた美しい、人を惹きつける魅力を有しています。梁祝のとても美しい精神は残酷な打撃に遭遇し、そこから更に人々の同情を引き起こしたのです。梁祝の死しても変わらない愛情、純潔高尚な愛情、これがその時代、時代の青年達の崇敬を呼び覚まし、梁祝故事は多くの大衆の精神的共鳴を巻き起こしたのです。

そういうことから梁祝故事は戯曲、映画、音楽、舞踏、美術、彫刻、多種多様な人を感動せしめる芸術形態に派生変化しています。多種多様な芸術は又多種多様な思考を誘発せしめ、学者達は梁祝故事発生の歴史的背景をあきらかにしようとし、民俗学者は当時の結婚の風習を研究し、美学の研究家は梁祝のイメージの美学的原理を研究しようとし、考古学者は祝英台の学問所、梁山伯のお墓の遺跡の真偽を考証しようとするなど

…かくして梁祝に関わる文化現象を生みだし、多種多様である盛観をていする「梁祝文化」を形成したのです。


Copyright (C) 2007 Liang-Zhu All rights reserved